精神病院を退院して再来月で一年

精神科や睡眠薬というキーワードで既にお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、私は精神疾患を患い、一昨年の十一月二十七日に入院し、去年の十一月九日に退院と、約一年の入院生活を送っていました。統合失調症という病名で入院したのですが、症状がまだ軽い方だったので早く退院できました。しかし、症状の重い人で私の見た中で一番長い方で昭和から入院している人もいました。それほど怖い病気だったんだなぁと、今更ながらに感じております。

症状が軽いといっても、私の場合、医者も首を傾げるほどめずらしい症状で、統合失調症という確定診断が下されるまで半年弱かかりました。症状はまず、ガラスを綺麗に磨いたようにモノがくっきり見えすぎるというものと、聞こえてくる音が異常に大きく聞こえるという症状でした。かなりつらく、今でも思い出したくないほどなのですが、それ以上につらかったのが、その時飲んでいた薬の副作用です。リスパダールというメジャートランキライザー抗精神病薬)を服用していたのですが、胸を体の両側からグーッと押さえつけられているような感覚に陥り、息ができなくなるほどでした。あと、これは抗精神病薬に常につきまとう副作用なのですが、遅発性ジスキネジアというものも経験しました。これは抗精神病薬に含まれるアセチルコリンという物質が脳内で増え、様々な運動障害をもたらすという副作用です。私が経験したのはまず、唇をすぼめたまま元に戻らなくなるということを体験しました。舌や口が自分の思うように動かないのです。当然食事は摂りづらいですし、じっとしていてもストレスになります。また、ベッドで寝るときに、左は難なく向けるのに右に寝返りを打とうとすると体がどこかの段階で固まって動かなくなったのです。常に右を向いて寝ていた私には耐えがたいストレスでした。抗コリン剤というので少しは楽になりましたが、それでも薬を飲んでしばらくすると息がし難くなったし、体の制御も徐々に利かなくなっていました。

そんなつらい日々が三か月続き、精神的にぼろぼろになっていたのですが、去年の四月に主治医の先生が「基本となるお薬を変えてみましょう」と言い、今までずっと飲み続けていた抗精神病薬を変えてみようということでした。これが私の人生を救った出来事といえます。新しく出された抗精神病薬で、私の症状はみるみる回復していきました。先生も周りの看護師たちもびっくりするほどの回復で、なによりうれしかったのは私自身でした。その薬を飲み始めて二ヶ月後の六月、症状の回復を見た主治医の判断で、ようやく念願の開放病棟に行けることが決まったのです。この時点で、閉鎖病棟に半年と二か月。ずっと外の空気を吸うことはありませんでした。

で、開放病棟ではまず、外の空気が吸えることがとても有難いことでした。それに男女共同の病棟で、今まで男ばかりのむさ苦しい空気もそこにはありませんでした。なにより一番印象深かったのが、看護師さんたちが入院患者を人間として扱ってくれること。閉鎖病棟の看護師たちは、やはり認知症や先天性疾患を持っている患者さんたちを扱っているため、患者をモノとして捌いている姿勢があからさまなのです。こんなことを書いて問題にならないといいのですが、夜中に騒ぎだす患者を看護師が懐中電灯でボカボカ殴っている光景を見たのは一度や二度ではありませんでした。

そして、開放病棟では女性と話ができるのがうれしいことでした。といってもみんな精神を患っている人ですから、まともに話のできる人を見つけるのにも苦労しました。それでも中には症状が回復して美人な方もいらっしゃいますから、そういう方とお話しすることが一番楽しかったです。女性と話すときめきからずっと遠い所にいたので、そういう今ではなんでもないことが一番の楽しみになっていました。また、開放病棟で麻雀も覚えました。大体の年齢層が四十代から六十代くらいの方たちばかりなので、ほとんどの方が麻雀の熟練者。初心者の私は怒りっぽい人からスパルタ指導を受け、やさしい人から麻雀の役を教えてもらい、退院する間際になってからはほとんどそつなく打つことができるようになりました。

で、去年の十一月九日に退院し、家族のもとへ帰ることができました。高認を取るための予備校に入学するまで、帰ってから一日の規則正しい生活を維持するために作業所へ通所することになりました。機織りを覚えたのはその時です。作業所の方たちは皆やはり精神疾患を経験した人でしたが、当時は逆に気後れすることがなかったのでかえって良かったと思います。

しかし、人間みな成長するもので、私は今の作業所で同じ精神疾患を抱えた方と時間を過ごすことに抵抗を感じ始めたのです。私の病気もクリニックの先生が驚くほどのスピードで回復し続けていました。作業所でもスタッフの方と間違われるほどでした。病気が回復すればするほど、本当に身勝手な話ではありますが、作業所の方たちと同じ空間にいることが苦痛になってきたのです。

もともと、私は予備校に通う練習段階として作業所に通所していたので、父も祖母も反対するどころか、「そう思えるほどによくなったということだよ」と喜んでくれました。


そして、今では予備校に通い、高認を取るための勉強をしています。次のステップは一人暮らしということがあります。考えてみれば一昨年からの二年間、本当に人間として成長することができた二年間だったと思います。精神疾患に罹ったことも、自分の人生の大きなターニングポイントだったと、自分の障害者手帳を見るとそう思えるのです。